2012年04月29日

若者の「暴走〜アソビ」の行方

警察庁の発表によると暴走族は大幅減少しているということですが、本当にその数は減少しているのかが気になったので少し調べてみました。警察庁が公開している「実績評価書」と社人研が公開している「人口統計資料」を元に検証してみましょう。

まず、「暴走族」についてですが、2005年と2010年でその実数を比較してみましょう。
暴走族の構成員数は、2005年で15,086人、2010年で9,064人。
5年間で-39.9%で大幅減少といってもいいでしょう。い集・走行回数は2005年4,569回、2010年3,566回となっており、5年間で-22.0%です。人数の減少に対して、現役世代が若干ふんばりを見せているといったところでしょうか。

次に、暴走族が減ったといっても、単に若者が減ったからかもしれませんので、若年人口の推移を見てみましょう。
15〜19歳人口は、2005年で6,568,380人、2010年で6,063,357人(-7.7%)
20〜24歳人口は、2005年で7,350,598人、2010年で6,426,433人(-12.6%)
この統計から見ると15歳〜24歳の人口は、5年で約143万人減(-10.3%)と減少傾向にあることが分かります。
つまり、人口の減少率に比べても、暴走族の構成員の減少率は急激であり、暴走族は大幅に減っていると結論付けてもいいかもしれません。

佐藤郁哉『暴走族のエスノグラフィー』では、暴走族活動の非日常的な「遊び」の意味的なまとまりや構造を記述するとともに、しかしそれらが大人としての生活と日常性の世界への回帰を背景としたものであると述べています。
暴走族活動を一時の反抗あるいは合法的生活領域と逸脱的領域の間の漂流にとどめ、社会変革の契機とはなりえないようにしている一つの大きな力は青年期を一つの「アソビ」の期間として規定してしまうことによって、青年層の持つ潜在力を日常性の中にとりこんでしまう文化的な規制力であると考えることができる。
商品と消費のあり方によってひきおこされた暴走族という逸脱の様式は、最終的には消費と商品生産という、より大きな様式の中にとりこまれることによって、潜在力を吸収されてしまう。
商品と情報を駆使した一時的な反抗の場としての「暴走族活動」の減少は、若者にとって、あるいは今の社会にとって何を意味するのでしょうか。
「遊び」を成り立たせる社会・経済状況というコンテクストは変化しています。若者を非日常の世界から日常の世界へと回帰させ、受け入れるための背景としての経済状況と豊富な労働市場という前提は崩れかかっています。背景が変われば遊びも変わる〜しかし、逆に言えば、今の若者にちょっとした逸脱としての遊びを許さない社会となってきているともいえるのかもしれません。

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2012年03月10日

アフォーダンスとシグニファイア

D.A.ノーマンのシグニファイアの提唱以来、ノーマンの提唱する「アフォーダンス」の言葉の置き換えのように捉えられることもあります。
しかし、実際には単なる置き換えに留まるものではなく、デザイン界にとって、新たな概念を提唱しているといえるでしょう。まずは、以下のようにアフォーダンス(ギブソンの提唱する「真のアフォーダンス」)とシグニファイアのポジションを可視化しておきます。

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2012年03月04日

Infographics of D.A.Norman books

Just for fun...

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2011年12月29日

情報の「信頼性」から見たキュレータ考

■情報伝播における信頼性
有用な情報や面白い情報はネットワーク上で広く伝播・拡散していきます。
しかし、伝播・拡散させたくなる情報は、情報自体の価値だけでなく、情報の発信者や情報自身が持つ「信頼性」が深く関わっているように思います。文章としては同じ表現だとしても、何かの専門家の発言であるか、そうでない人のものであるのかはコンテクストとして大きな違いであるといえます。

一般に情報は伝播を続けると、その情報を発した人からの人のつながりのが離れていきます。すると、それに応じて信頼性が低くなるといえます。伝言ゲームを想像してみるといいでしょう。親友の発する情報は信頼できるでしょう。しかし、友だちの友だち、そのまた友だちの情報は…─自分からの距離が遠くなると、やはり信頼性が低くなっていくように思います。知識人・専門家が発した情報は、その人の発言であることが担保される限りは伝播していくでしょうが、それにしても「また聞き」のような情報になれば、その信頼性は伝播を繰り返すと低くなっていくといえます。情報が伝播し、信頼性が何らかの「閾値」を下回ると、その情報の伝播は止むでしょう。

■信頼性を「シフト」するキュレータ
佐々木俊尚氏の著書「キュレーションの時代」では、いわゆる美術界におけるキュレーションを超え、情報を繰る行為としてのキュレーションにまでその定義を拡げています。キュレータとは、上記のキュレーションを行う人のことです。
キュレーション:無数の情報の海の中から、自分の価値観や世界観に基づいて情報を拾い上げ、そこに新たな意味を与え、そして多くの人と共有すること。
ここで「キュレータ」の役割について、情報の信頼性の議論と合わせて、模式図を用いて考えてみましょう。横軸に情報の信頼性(credibility))、縦軸に情報伝播(propagation)の広がりをとります。(あくまで模式的なものです、科学的な根拠に基づく議論ではありません。)

情報1がある人から発せられると、その情報はその「価値」に応じてネットワーク上を伝播していきます。情報自体には潜在的な価値はあるものの、その情報やその情報の発信者の信頼性が情報の受け手にとって十分でないときには、その情報は伝播を止めます。

情報2が発せられると、同様に、その情報はその「価値」に応じてネットワーク上を伝播していきます。ここで、この情報があるキュレータの目にとまるとき、その情報には新たな「視座」が与えられるとともに、そのキュレータが潜在的に持っている「信頼性」が加えられます。つまり、キュレーションとは、情報が発信された後に情報の信頼性を上方にシフトさせる効果があるのではないでしょうか。ここには単純に情報自体の価値の向上ということには留まらない、何らかの「信頼性」の向上があるのです。「あの有名なキュレータが面白いと言ったのだから、(今の自分にはよく分からないけど)面白いのだろう」…こうした積極的ではない理由までをも含めて、キュレータによって情報に信頼性が加わり、その情報の伝播のポテンシャルは高められるのです。

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■信頼性のシフトが情報のポジティブな滞留を生む
情報は何か特定のコミュニティの中にストックされ、閉じていられる時代ではありません。常に川(ストリーム)を流れているフローの状態にあるといえます。キュレータは情報の信頼性を高め、その伝播の範囲を広めます。それに伴い、その情報はネット上にフローとして存在している時間が長くなります。そうした情報の「有意義な延命」により、キュレータの周りには、いい意味での情報群の「滞留」が生まれるのです。それが佐々木氏の上述の著書でも挙げられている「ビオトープ」(情報を求める人が存在している場所)なのではないでしょうか。

■キュレータは人と人の距離感を縮める
キュレータが情報に信頼性を与えると同時に、その情報の発信者にも一時的にしろある種の信頼性が与えられることになります。これは、見ず知らずの人にも関わらず友人や知人と同じような信頼性を、あるコンテクストにおいて与え、人と人の距離感を縮めることになります。
キュレータ的なロールモデルをもった人物が、ファシリテータとしてトークショーやワークショップを形成しているのはごく自然といえるでしょう。彼ら・彼女らは様々な小さな意見・アイデアをつなぎ合わせ、それらを新たな次元へと高めるとともに、彼ら・彼女らの周りにはインパクトのある情報群の滞留が起こっている。それらの情報を求めてさらに人々が集まってくる。そうした相乗効果を生む役割といえるのではないでしょうか。

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2011年12月04日

イノベーションにまつわるメソッドの整理

新しいモノやコトを起こすにあたり、これらにまつわるメソッドには様々なものがあります。しかし、実際にはメソッド毎の立ち位置は十分に整理されているようには思えません。ここでは、簡単なメタファを用いていくつかの考え方の差異を明らかにすることを試みます。

イノベーションという「山」のメタファで考えてみましょう。高い山は大きな市場であり、イノベーションとはより高い山に登るチャンスを生み出すものです。

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■テクノロジー
直感的にも、テクノロジーが最も「イノベーション」に近いでしょう。D.A.ノーマンはACM Interactionの「Technology First, Needs Last: The Research-Product Gulf」の中で革新的なイノベーションにおいては、まずテクノロジーありきで、次に製品が生まれ、ニーズは少しずつ生まれてくるというイノベーションのプロセスを説いています。
技術者は技術を研究開発しているときには、一つの山を登っているつもりでいます。しかし、実は違う山をいつの間にか登っていることがあるように思います。その今までと違う山はより高い所にたどりつく場合もありますし、今よりも低くなってしまう場合もあるでしょう。その潜在的なチャンス(あるいはリスク)がテクノロジーによるイノベーションの可能性の大きさといえます。

■人間中心設計
人間中心設計はというと、山を丁寧に登っていくイメージではないでしょうか。ある市場がみつかり、何かの目的を果たす製品・サービスを提供する。そのときに、そこで利用する人々にとって最善のものにすることが人間中心設計の基本的な考え方といえます。この場合、提供価値は確かに良いものになっていくのですが、まったく違う山にジャンプする潜在性はテクノロジーほどにはないのではないでしょうか。

■マーケティング
マーケティングはある山を定めたときに、その山の高さを測ることが主眼にあるイメージではないでしょうか。もちろん、様々なセグメンテーションの切り方によって新しい着眼を得て、新規の市場を発見することもあるでしょう。しかし多くの場合は、ある特定の市場について、その中で自身がどう振舞うと有利であるか、つまり山でいえば、どこから山に登ると他の人よりも早く・安全に頂上にたどり着けるかを考えることに近いのではないでしょうか。

■フィールドからのイノベーション
ビジネスエスノグラフィなどのフィールドからの情報を基にしたイノベーションの試みは、テクノロジーによるイノベーションに対する「人間の視点からの反乱」と言えるのではないでしょうか。
未来を少しだけ先取りしているマインドを持つ人々(エクストリームユーザ)からそのエッセンスを吸収して、新しい機会を創発する─つまり、ある山の中でもっとも山に多く住んでいるタイプの人々を対象とするのが人間中心設計であるのに対して、違う山に住んでいる人々やその人々を取り巻く環境から学び、新たなアイデアを生み出すという試みといえるでしょう。


この「山」のメタファにより、これらのメソッドがそれぞれどういう視点・立ち位置で何を見ているのか、その一端が整理できたのではないでしょうか。

新しいイノベーションが必要と考えている企業や組織において、どのようにするとイノベーションが起こせるのかについては、その企業や組織内に生きている人間にしか分からないように思います。
本当にイノベーションが必要なのか?必要だとしてそれが生まれるための潜在性が高まっているのか?何かその変化の兆候が見えているのか?これらを考えたときに、何かに課題があるとしたなら、活用すべきメソッドの組み合わせのバランスが崩れているのかもしれません。一度、皆さんの中で自分たちの立ち位置や課題をここで挙げたメタファを用いて整理してみてはいかがでしょうか。
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2011年11月12日

書評:松波晴人『ビジネスマンのための「行動観察」入門』

本書は、理論と実践、帰納と演繹の間を行き来する行動観察というサイエンスの冒険書です。

まず、松波氏の行動観察のアカデミックなバックグラウンドとなる、コーネル大学でのワンシーンから始まり、クイックに行動観察の定義や他のアプローチとの位置づけについて示しています。行動観察とは、観察者が様々なフィールドに入り、対象となる人間やモノ(アーティファクト)などを観察した上で分析し、問題解決の方法を提案する方法です。企業は横並びの製品・サービスの開発から脱却するためにも、アンケートやインタビューでわかる顕在ニーズから、顧客(潜在顧客)自身すら明には気付いていない潜在ニーズに注目しています。行動観察は、本人すら認識していない行動をつぶさに観察することからも潜在ニーズをつかむのに適しているアプローチといえます。また、アンケートなどでは問題となる社会通念によるバイアスを排除できるということも利点として挙げられています。

その後は怒涛の「事例」の嵐 ─ 松波氏のオートエスノグラフィ(自己の行動観察)ともいえる筆の運びで、松波氏の五体を通して経験されてきたこと、フィールドでの人やアーティファクトとの生き生きとした出会いがダイナミックに描かれています。

しかし、ここで安易に「事例」という言葉を使うことを躊躇してしまいます。

ふつう、事例というと一つのアプローチを多くのフィールドに適用することをイメージします。本書での「事例」はそうではありません。フィールドにはそれぞれにそれぞれの人々やアーティファクトがうごめいています。松波氏はプランするよりもアクションすることをまずは選択しています。そして、そのフィールドから得られた所感や課題から適用できそうなアカデミックな理論に立ち戻り、それをフィールドに再度落とし込むというアプローチをとっています。つまり、行動観察という単一のアプローチが存在するのではなく、個々のフィールドを「サイエンス」で解き明かしていくという地道な知の冒険が「行動観察」であると主張しているように思います。

本書のタイトルには「〜入門」とありますが、個人的には「〜基礎」の方がしっくりくるように思います。つまり、読みやすい文章と説明の背後にある本質的な課題は、並の取り組みでは到達し得ないのです。

たとえば、「よい仮説」を出す重要性を解いていますが、一言で「仮説」といっても、松波氏のような素直な、かつ裏に隠されたサイエンティフィックな目線でフィールドから何かを学ぶことは非常に難しいことです。
また、本文中に示されている単刀直入なソリューションの数々も、文章を読んでいるとあたかも自分もすぐに思いつきそうに思えてしまいますが、シンプルで、かつフィールドでインプリメンテーション(実験)可能なソリューションを「思いつく」ための人づくり・組織作りも求められるのです。

すべてのビジネスマンにとって、自分の対象とする「フィールド」の肌感覚を持つことはイノベーションを起こすために必須といえます。
本書が啓蒙書としての役割を果たし、無数のフィールドで「行動観察」というサイエンスが試みられ、数年後にはビジネスマンの「冒険書」が書棚に並ぶことが期待できるのではないでしょうか。
 
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2011年09月20日

乗馬に見る組織マネジメント:D.A.ノーマンのフレームワークからの考察

乗馬と組織マネジメントには共通点があるように思います。

D.A.ノーマン「未来のモノのデザイン」では、馬と乗り手との共生的な組み合わせについて考察されています。乗馬では、「ゆるい手綱使い」と「きつい手綱使い」があります。きつい手綱の元では、乗り手は馬に意思をしっかり伝えて馬を直接的にコントロールします。ゆるい手綱の場合には、馬にはより自律性があり、乗り手はほかの事をしていてもいいし、眠っていてもよい状態となります。この「ゆるい」と「きつい」の間にはもちろん中間的な状態があり、馬と乗り手の協調により乗馬は成立します。

一方、組織には主にリーダーとメンバーという役割があります。そして、双方が協力することで何かしらのゴールを達成しようとします。
ここで組織マネジメントを乗馬にたとえるなら「きつい手綱使い」はリーダーシップ的な組織マネジメントといえるでしょう。リーダーが行き先を決め、その意思をメンバーに伝えてゴールに向かいます。「ゆるい手綱使い」はメンバーシップ的な組織マネジメントといえるでしょう。メンバーはおおまかなゴールを共有した上で、自らの主体性を持ってゴールに向かいます。

組織がゴールに向かう上で、なぜ行き詰まるのかは乗馬にヒントがあるように思います。

「乗り手中心の乗馬=強力なリーダーシップ」では、確かに方向性は決まりますし、最短時間でゴールに近づけられる可能性があります。しかし、自然の直感、つまり例えばメンバーである技術者の「嗅覚」のようなものを汲み取れない可能性があり、距離的には近いかもしれませんが、行くべきでない危険な方向に進んでしまったり、もっとよい「餌場」がある場合にも逃してしまうかもしれません。
「馬中心の乗馬=柔軟なメンバーシップ」では、メンバーまかせでメンバーの主体性を活かすことができますし、新しい発見も得られるかもしれません。しかし、「道草」がおおく、いつまでもゴールにたどりつかないかもしれません。

このように乗馬と組織マネジメントには何かしら共通点を見出すことができるように思いますが、忘れてはならないのは、組織とは「共生的なシステム」であるということです。

共生システムとしての「馬+乗り手」は、同じくノーマンの「エモーショナルデザイン」のフレームワークを援用するなら、馬は本能レベル、乗り手は内省レベル、そして両者が行動的なレベルの情報を共有しているひとつのシステムといえるのではないでしょうか。
組織においては、メンバーはより現場に近い「嗅覚」のような本能レベル、リーダーはより全体感を持った内省レベル、そして、双方が行動レベルを共有することでひとつのシステムを形成しています。

「リーダーシップ」や「メンバーシップ/フォロワーシップ」のように、極端なメッセージを出すことはビジネス本としては分かりやすいかもしれません。しかし、リーダーやメンバーが互いの役割や認知的なレベルの違いを意識した上で、しかし、全体としては「共生システム」であることを共有しておくことが本来的には組織マネジメントに求められているのではないでしょうか。


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2011年07月23日

D.A.ノーマン『複雑さと共に暮らす〜デザインの挑戦』概説

■はじめに
本書は、ドナルド・ノーマンの前著『未来のモノのデザイン』(2008年)に継ぐものです。本書の主題は、実世界やテクノロジーがはらむ必然的な「複雑さ」との共生のデザインにどう取り組むか、というところにあります。当初ノーマンは、社交的でコミュニケーションする人の特質をデザインに取り込むという内容で、タイトルを『Sociable Design(社交的デザイン)』として執筆を進めていました。しかし、機器やサービスを社会的・社交的な活動として捉えデザインすることは問題に対する解決手段の1つであり、ノーマンいわく「これでは1時間の講演に見合うものではあるが、本2章分くらいにしかならない」ものと気づいたとのことです。その後、デザイナーとユーザーの双方が「複雑さ ─ complexity」に責任を持つという、本書の主題にいき着いたということです。

ここでは、本書のポイントについて、ノーマンが訳者とディスカッションするために来日した際の話を加えながら概説します。

■2つの大転換
本書では、ノーマンのこれまでの主張における2つの大きな転換が見られます。1つ目は、『誰のためのデザイン?』以来の「簡素(シンプル)」に対する考え方、2つ目は、従来のアフォーダンスを置き換えるシグニファイアという概念の導入です。

第1の転換:「簡素(シンプル)」から「複雑さ」との共生へ
本書の中心的なキーワードはタイトルの通り「complexity〜複雑さ」です。原書英文で「複雑さ」にあたる単語としては、complicate, confuse, complexなどが用いられている。complicateやconfuseは人間の頭の中の認知、complexは実世界側での事象を主に表わしているものといえます。翻訳に際しては、前者は「混乱」、後者を「複雑」としました。ただし、必ずしもそれぞれの単語を機械的に訳すのではなく、文意に合わせて訳し分けました。
これまで人間と機械とのインタラクションの主眼は、いかに「簡素(シンプル)」にするかにあったといえます。この「シンプル」も「混乱」の種と成り得ます。ノーマンはAppleのiPhoneを例に挙げています。AppleのiPhoneは「シンプル」だと多くの人が言います。そもそも単純な課題に対してシンプルな操作性を与えることは簡単です。しかし、ひとたび「タイムゾーンを変更してみて」といった課題を与えると、はたと悩むことになります。それでもそれがシンプルだと思われているのは、そうすることがユーザーにとって愉しいからであり、また、操作に失敗してもユーザーが自分自身を責めるからです。「シンプル」という状態は、実世界側と人間の認知の側との双方で起こり得ます。つまり、人間の認知の側で起こり得ることは「混乱」の種となり得るのです。
実世界側のタスクは複雑であり、それ自体は良しとする。デザイナーもユーザーも実世界の複雑さとそれに見合ったテクノロジーについては「パートナー」として協力するというのが今回のノーマンの主張です。システム全体の複雑さは一定であるという「テスラーの複雑性保存則」もこの協調関係にどう対峙するのか、という論点を提示しています。こうした視点は、これまでデザイナーが責任を負うべきであったというこれまでの主張とは異なるのではないでしょうか。もちろん、人間側の認知における「混乱」については、従来の主張と変わらず、デザイナーが責任を追う領域であることは揺らいでいません。

第2の転換:「アフォーダンス」から「シグニファイア」へ
1988年、ノーマンは著書『誰のためのデザイン?』を通じて、アフォーダンスの概念をデザインの世界に導入しました。以来、それはデザインの世界に広く受け入れられましたが、J.J.ギブソンが展開していた概念とは捉えられ方が異なっていました。アフォーダンスは、生体とモノとの間の関係性であって、その存在に気づくか気づかないかに関わらず環境に存在するものです。しかし、デザイナーは、それがユーザーに知覚されない限り存在しないのも同じであると考えます。そこでデザイナーはユーザーがそれに気づくように「製品にアフォーダンスを付ける」のです。この「知覚された」アフォーダンスとも言うべき異なる概念に対して、本書では「シグニファイア」という言葉を導入し、デザインの世界でのアフォーダンスとシグニファイアを区別することを提言しています。デザイン界の「アフォーダンス」の提唱者自らの「宗旨替え」は大きなインパクトを持つでしょう。

■エクスペリエンス/経験
原書では頻繁に「experience」という単語が登場します。翻訳に際しては、明らかにデザインの世界のユーザーエクスペリエンス(UX)を指している場合には「エクスペリエンス」をあて、いわゆる見たり聞いたりといった個人の記憶によるものを指している場合には「経験」をあてました。
「ユーザーエクスペリエンス」という言葉のニュアンスを日本語にするのは難しいと言えます。ユーザー経験、利用経験といった訳語もありますが、デザイナー側からユーザー側、利用前から長期的な利用後に渡る、包括的な概念を表わしきれていないように思えます。experienceの語源をたどると「(危険を冒して)試す」といった意味合いもあるようです。本来的には「体験」といった訳語が合うのかもしれません。この語源の意味でのexperienceを成立させるには、ここでもユーザーとデザイナーのパートナーシップが求められているように思えます。デザイナー側の片思いでは語源の意味としてのexperienceを創り上げたことにはなりませんし、ユーザー側の製品やサービスへの一方的な期待や活用でも充分とは言えません。
ユーザーが実世界で製品や周囲の環境を創造的に「ハック」する様子を捉えることが、デザイナーにとって大きなヒントになるとノーマン自身も語っています。
リアルか未知かを問わず、ユーザーとデザイナーの相互の直接的・間接的なインタラクションがあってこそのexperienceなのでしょう。本書で無理に新たな日本語訳を割り付けるよりも、「エクスペリエンス」の本来の意味合いを我々が伝え続けることの方が生産的ではないでしょうか。

■おわりに
2011年3月11日、日本は未曾有の災害を体験しました。そして将来に渡る様々な問題に直面しています。テクノロジーへの素朴な信頼がもたらした課題もそこには多分に含まれているように思われます。国の役割、地方行政の役割、企業の役割、一般の人々の役割 ─ 複雑な問題に対して、それぞれがそれぞれの役割を担い、互いに知恵を出し合い、パートナーとして問題を共有してゆく─ まさに、本書で提示されている複雑さに対する大きなチャレンジが今我々に課されているように思えてなりません。

 
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2011年06月27日

人間中心のサービス工場

QBハウスは「1000円でカットのみ」という理容の徹底的な効率化を図って成功している企業です。

客は店に入ると、チケットを購入します。そして、待ち合い席に順次並びます。カット台が空くと、店員が客を招き入れ、店員にチケットを渡し10分ほどでカットは終了。洗髪などのサービスはなく、備え付けの「掃除機」で吸い取ります。カットが終わると店員は散っている髪をモップで集めて、これまた床に備え付けてある「掃除機」の口から吸い取ります。そして、客の座席の毛をはけで掃って次の客を招き入れるのです。

その業務プロセスはまるで工場のラインのようです。入り口には青・黄色・赤のランプが表示されており、おおよその待ち時間を示してくれています。このランプは店員が感覚的に待ち時間を調整しているのかと思っていましたが、実は自動的に表示が切り替わるようになっています。どうやっているか?チケット購入(In)と、最後の髪を掃除するときの「掃除機」の動作(Out)で制御しているということです。

このようにQBハウスでは、徹底的な効率化が図られている訳ですが、効率という点から改善できることが一つあるように感じました。
それは、カットが終わった後の、モップ掃きと座席の毛を掃うタイミングです。現状は先にモップで掃いていますが、これを座席の毛を掃う動作と逆にすれば、客席も床もきれいにできるのです。

しかし、もう一度そのタスクの流れを見ていて思い直しました。

最後に座席を清め、その行為に連続するように「どうぞ」と次の客を招きいれる─そこにはある種、茶道のような無駄のない流れがあり、それが客に対する姿勢として適切なように思えてくるのです。

モノを作る工場と、サービスを提供する「工場」との違いは、効率化という点では共通していますが、相手がモノであるのか人であるのか、つまり、人の感情・気持ち、人と人のつながりを中心に据えることが異なるといえるのではないでしょうか。
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2011年04月12日

CSCW2011参加報告〜開催国「中国」を起点とした所感

■コミュニケーションの学際的な研究領域〜CSCW
2011
0320日から23日の4日間、The 2011 ACM Conference on Computer Supported Cooperative Work (CSCW2011)が中国・杭州にて開催されました。CSCW (Computer Supported Cooperative Work)は、グループ、組織、コミュニティなど、複数人の間でのコミュニケーションにおける技術的・社会的な課題にチャレンジする学際的な研究領域です。本会議はCSCW研究における世界最大の国際会議の一つです。本会議は規模も大きく、トピックも多岐に渡るため、すべてのトピックを紹介することは難しいのですが、中国での開催ということもあり、中国という異文化にグローバル社会がどう研究としてアプローチしているのかに焦点を当てて所感を交えてメモしておきます。

■中国研究者の躍進

CSCW2011
は、発足以来初の北米外での開催となります。参加者は338名(内訳はアジア140名、北米138名、ヨーロッパ48名、その他12名)です(最終的にはもう少し現地の参加者が増えたとのことでした)。開催地ということもありますが中国系の研究者の躍進が目立ちます。例えばPaper/Noteという競争率の高いカテゴリーの68本の論文うち15本の筆頭著者が中国系の研究者で占められています。ちなみに、同カテゴリーにおける日本からの発表は2本のみです。中国の知識層の海外進出の広がりを感じさせます。

■中国文化と対峙するグローバル企業

中国での会議開催ということもあり、技術的な発表もさることながら、異文化間コミュニケーションの社会的な側面のトピックが目立ちました。


パネルディスカッションでは、グローバル企業を中国にローカライズする際の伝統的な家族制度と欧米の組織作りの間の溝について議論が及びました。

IBM
では、「ジャムセッション」という教育プログラムがあり、「IBMer」つまりIBM社員としての考え方を3日間の研修で身体にしみ込ませます。しかし、中国人社員にこの研修の意義を理解してもらうことは難しかったという。中国人社員の多くは、与えられた仕事をきっちりこなすために自分は会社にいると考えており、「IBM社員」として改めて教育を受けることに抵抗があったということです。
レノボでは、米国の習慣にならって社員同士をファーストネームで呼び合うキャンペーンを実施。毎朝、社長が入り口に立ち、社員が社長をファーストネームで呼ぶまで握手しつづけます。小さなことですが、こうした活動が年齢や性別など伝統的な文化による組織内のコミュニケーションの壁を減らすことになったということです。


Paper/Note
のセッションにおいても、中国文化の特性を現すような研究成果が報告されています。
Qinying Liao (IBM Research China)
らは、IBMにおける企業内ブログについて、中国と米国での社員の取り組み方の違いについて研究しています。彼らの報告によると、中国人のほうが個人やチームのための投稿が目立ち、米国人はよりチームの外に向けた興味の共有が目立つという。フォーマル/インフォーマルの労働に対する意識についても中国と米国で文化的な違いが見られるとのことです。
私見ですが、グローバル化やソーシャルメディアの普及により個人の持つ情報の均質化が進んでいるように思えますが、一方で
IBMのようなグローバル企業に勤める中国人でさえも伝統的な文化や価値観を維持していることに人間の面白さを感じます。グローバル企業にとって、ローカルの働き手の特性を活かしながら、企業の文化にどのようになじませるのか──今後も研究が必要な領域といえます。

■グローバル企業のIT技術にもまだまだ課題が

分散する拠点間のコラボレーションもグローバル企業にとっての大きな課題です。

John C. Tang (Microsoft Research)
らは、時差のある地域の間での働き手の振舞いについて研究しています。彼らの報告によると、時差のある地域間のコミュニケーションでは、グループウェアや電子メールなどの非同期型のツールももちろん用いられていますが、TV会議やウェブ会議などの同期型のツールがより好まれているという。働き手は業務時間外にも関わらず自宅からTV会議などを使ってコミュニケーションすることを好んでいるとのことです。興味深いのは、労働時間や働く場所に対する意識が国ごとに異なることです。例えば、中国と欧米国間でTV会議をするには一方の働き手が夜遅くまで時間をシフトさせて働く必要がある。このような場合、若い中国人の働き手は夜の910時までオフィスにいることはよくあることのようですが、米国人は夜まで働く必要がある場合には自宅に帰って夕食をとり、そのまま自宅でTV会議をすることを好んでいるとのこと。米国では働く場所としてのオフィスと自宅の境界が希薄になってきている一方で、中国では働く場所と自宅を依然として分ける傾向があるといえます。この研究結果からも中国と欧米での労働に対する意識の違いが浮かび上がっているといえます。

私見として、企業において地理的に分散したチームがコラボレーションするには、電子メールやファイル共有といった現状のグループウェア機能だけでは不十分であると思います。例えば、オフィスと自宅をより柔軟にセキュアに結ぶネットワーク技術、ビデオや
PC画面などを誰でもが簡単に共有できる仕組み、時差のある拠点間で簡単にカレンダーやスケジュールを共有できる仕組み、オフィスや自宅などの環境の違いを吸収できるツールなど、技術的な課題も実際にはまだ多く残されているといえます。
今回の東日本における大震災を振り返ってみても、オフィスに集まる働き方だけでは、ビジネスを継続する上でもリスクが高いことが体感できたと思います。働き手が分散する環境においても、顔をつきあわせて働くときと同等以上の生産性が得られるような働き方の方法論、そしてそれを支援するツールの研究開発が今後も必要となるのではないでしょうか。


■ハングリーな中国と停滞感のある先進国

キーノートスピーチとして、ジャック・マー
(Chairman and CEO, アリババ・グループ)と、ジュヌビエーヴ・ベル(Intel Fellow, Intel Labs)による講演がありました。
マーは中国におけるインターネットの広がりを背景として、現状のアリババ・グループの持つ
B to Bのインフラ事業にこだわらず、C to Bつまり中国国民の生み出す膨大なデータを今後のビジネスに活かすという展望を語りました。
一方ベルは、我々現代人にとって「退屈」はまた起こり得るのかという問いを発し、彼女の専門であるフィールドワークの観察結果を事例として挙げながら、退屈が人間にとって根源的なものであり、対価を払ってでも退屈を得る時代に入って行くという視座を与えてくれました。


ハングリーな中国と、停滞感のある先進国──それぞれの講演は中国と先進国を象徴する対照的なテーマであったといえます。
異なる文化圏にある人と人、人と企業、人と社会をつなぐ学際的研究領域としても、今後も本学会は注目に値するのではないでしょうか。次回会議は来年2月に米国シアトルでの開催が予定されています。
タグ:中国 CSCW
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